音楽の根源にあるもの
やっとこさ第二回です。
- 作者: 小泉文夫
- 出版社/メーカー: 平凡社販売
- 発売日: 2005/06/30
- メディア: 単行本
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あまりよく知らないくせに、「どうもふわふわしてるのでは」などと勝手な評価をしてた小泉文夫氏の文庫が平積みされていたので、つい買ってしまった。しかしレジでびっくり千円超、高い。うーむ、ちょっと豪華な装丁だからかしら。
本来ならばきっと、この本の解説にもあるように、日本の音楽探究の歴史に衝撃をもたらした
- 「日本伝統音楽の研究」
を読みしっかりと踏まえた上で、
- 柿木五郎他「音と思索」
- 柴田南雄「音楽の骸骨のはなし」
- 東川清一「日本の音階を探る」
あたりのフォローも含めて評すべきなんだろうが、毎日を徒然に生きるものにそんな集中エネルギーはナイ(きゃー)。
残念ながらこの本ではあんまり出てこないのだが、いくつかのテトラコルドとコンジャンクトとディスジャンクト(テトラコルド同士のくっつき方)の話ってのは、整理されてるようであんまり整理されていないという、ちょっとストレスのたまる音楽理論ではないかと思う。
- 日本の民謡音階は、どれも結局はテトラコルドによる四度構造で分析することが出来る
- 律の音階と都節音階は本来同じもので、ただ律の音階は中間音が次第に下がって都節の音階になったと考えられる
- 能の音組織は極めて複雑だが、結局は民謡と同じ構造で、コンジャンクトからディスジャンクトへの移行である
- 中国の雅楽の理論では呂の音階に三分損益の操作で変徴と変宮を加えるとされ、日本の雅楽の理論では律の音階に嬰商を加えるとされるが、これは律の音階の上に民謡音階が重なったものと考えると自然である
スーパー乱暴に要約してしまったが、しかし、こうやって拾い読みしてまとめてる最中にも「ときには」「中間的な形のもの」「移行」「重なった」といった表現で、多くの例外の存在が暗示されているのはちょっとさびしい。夢中になって構造化していると、わかっていても陥ってしまう罠のひとつだと思うんだが、「Aである」の補集合は「Aでない」であり、基本的な枠組みに例外を合わせると世の中すべてになっちゃうのである。
「テトラコルド先にありき」が危険だといっているわけではない、そんなこといったら「ペンタトニック先にありき」だって当然危険だ。また例外があってはならない、といっているわけでもない(完全を目指すあまりに少数の例外を存在しなかったことにしてしまうのは一番ヨクナイ)。人間の生み出すものを捉える枠組み(ここでは音楽理論)を評価するための仕組みは、それによって次の創作がかきたてられるか、というあたりがひとつのポイントだと思うんだが、少なくとも僕にとって主観的には、テトラコルドの足し算理論から得られるものはそれほど多くないというのが正直な実感だ。作曲にも演奏にも。
しかしこの「断片的思考の寄せ集め」の魅力ってば、そんな細かいことはどうでもいいって感じさせるイキイキとした躍動感だ。実際とっても素敵。氏の頭のなかでうねる構造とその語り口はまるで音楽そのもので、読んでいると、その情熱がひしひしと僕の目を通じて伝わってくる。熱狂的な心酔者や、嫌悪感や劣等感の同居した反論が、次々に吹き出してきたという歴史は、僕が体験してきたものではないが容易に想像はつく。そう、同じ小泉は純一郎氏にも通じるものがあるかもしれない。
特にリズムに関する話には、もうすっごく魅かれた。だって面白いし、いますぐ演奏したくなるぜ。繰り返し出てくる
ひーーーらいたーひーらいたーーー
の例なんて「いわれてみりゃそうだな」って話だが、僕らが無意識に感じてる遊びごころを、自覚という形で脳に焼きつけてくれる。イェイ、リズムな歌ばんざい!ロックンロールばんざい!