何気なさを装った宣伝なんて世に溢れてる
教育テレビでやってましたねグルダのロックバンド、初めて見ちゃった。ショック。
いやなんというか、その、なんともいえないというかうーむその。なんか『おっさん』だったんだなあこのひと、と。ときどき理由不明なんだけど怒ってる、そういう親方いるでしょ近所に、ハッピ着て。まあ正直いうと筒的には、やっぱりちょっとネガティブな印象で、できれば見なきゃよかったなと。
いやもちろん素敵な演奏もあるんですよ、たくさん。でもそのなんというか、音楽家としての僕はもうちょっと、やっぱり神経質なおやじが好きみたい。一見ニコニコしてて、あんまりしゃべらなくて、本音聞き出すのに時間が要るって感じの。そうだな例えばジム・ホール、このひとってば大まじめな顔してやること滅茶苦茶、大好き(<-あ、音楽の内容ね)。
ところが不思議なことに、人生ロマンティック一期一会な生きる「ひと」としての僕は、好み逆転するんだが。ああいうふうにマルコフ的に、忘れっぽく生きたいものだ。そうですよね寅さん(いや念のためいっておくが、グルダが忘れっぽかったかどうかは全く知りません)。
さて突然の連想ゲームだが、作曲または即興演奏におけるマルコフ性を考えてみよう。いや厳密なそれじゃなく、単に「過去の記憶」という意味だが。
ドミナントなんかの例を持ち出すまでもなく、和声学ってのは常に「次の和音から考えると」という未来志向(?)の解説である。一見これは合理的で、かつ何か音楽が精密な構築物のようでいて格好いい。しかし聴き手からすれば、これってけっこう微妙な問題だ。いや筋の難しい映画なんかでも同じことなんだが、「思い返す」という行為は、芸術の脳内やりとりの中ではまたひとつ別のアクションだってこと。
どうですか?「抱きしめたい」のイントロが終わったときに、未知の空間に投げ出されるあの感じ(和声の話じゃねーじゃねえか!というツッコミは禁止)。どうですか?イントロなしでCm7のコードから始まる「枯葉」を、初めて聴く自分を想像する。
イントロじゃなくて曲中だって同じことだ。僕らのほとんどは、音楽の中にいるとき何らかの絶対軸(調やリズムの)を、無意識のうちに求めていると思う。その軸からの移転は、実はさらに先の解決先を見込んだものになっている、という音楽の構造を(送り手も含む)聴き手の側から解きほぐそうとすれば、現在と「直前」との比較を放っておくわけにはいくまい。そう。何がいいたいか、みなさんもそろそろわかってきたと思う。またあれだよ…例のやつだよ…
ペンタトニックの筒である。ガーン
和声は、時系列的な筒的な列の移動に注目しようって話ですわ。まあ宣伝ちゃ宣伝なんだが。ちょっと最初だからって、頑張り過ぎてるかなこのペース…