音楽史と音楽論
原始から古代、中世近世、そして近代現代と、時代を横に切って並べて、それぞれ日本と西洋と、文化を縦に切って並べて、たったひとりですべてを貫いて俯瞰する壮大でコンパクトな書籍は、元は放送大学の全15講だそうで、ついテレビさえ買いたくなってしまうところを、グッと我慢します。
- 作者: 柴田南雄
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2014/04/16
- メディア: 文庫
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ところで、これらの小型の石笛は、吹けばまことにすばらしい音量と音色で鳴りわたる。小字四点オクターヴのハ・ニ・ホあたりで、鋭く激しく、エネルギッシュに、吹き方が巧妙であれば表情ゆたかに鳴る。いうまでもなく、それは現代人の通念としての楽器や音楽とはいささか趣が違うが、しかし、それを楽器や音楽でない、と断定することも明らかに不自然である。今日でも石笛は神社の礼拝行事で現に使われている所がある。その目的は、いわゆる神おろしであろう。それをも、音楽以前の一種の合図、信号と見ることもできようが、筆者は宗教音楽のもっとも純粋な形と考えたい。
もちろん部分的に、それぞれ誰も思い入れのある時代や音楽はあるもので、聞いたこともない固有名詞が続々と現れる中で、その点ボリューム配分には多少の不満を抱くことがあったとしても、それにしても英知に溢れて次々と触発される豊かな本で、枕元や旅の友達に素晴らしい。
電子音楽やコンピュータが珍しいものであった一九五〇年代、六〇年代には、やがて音楽はコンピュータ制御の電子音楽に征服されるのではないか、といった興味半分の予想をする向きもあった。わたくしはその時代に、ミュジック・コンクレートや電子音楽の実験や制作を試み、ミュジック・セリエルの様式で作曲を行っていたが、しかし、ヒトは太古からの歌う習慣や弾く楽しみをそれらによって奪われることはあり得ない、と主張していたし、その考えは今も変わらない。ただ、過去の西洋音楽は、歌ったり弾いたりすることをあまりにも専門的な技術と結合し、それ自体の価値を重要視したために、音楽を本来の素朴な喜びから遠ざけた。今や、きたるべき世界音楽は、第三世界の、日常生活とともにある、より単純な音楽に学びながら、新たな様式をうち立てる旅に出発しようとしている。もちろん、そのような見解は、従来の西洋音楽文化の視座からのものとの反省も成り立つが、ともかく音楽文化の核は、むしろ地球上の各地に分散するであろうと思われる。
ただひとつだけ、21世紀の現在について、伺ってみたかったな。