寒い妄想
とても興味深い話を読んだのだが、ある英国の女流ピアニスト名義のCDに収録されている曲のいくつかが、別の著名ピアニストが録音したものに若干のデジタル処理*1を加えたものだったことが、発見されたというのだ。要するに皆、ダマされてたと。
http://blog.goo.ne.jp/qubits/e/9ca0429207b57850bc260fb3ac1a682d
http://blog.goo.ne.jp/qubits/e/9a4a1268efd9c5dc01c7f98c3d3c7941
もとの記事は、グラモフォンのこちら。
http://www.gramophone.co.uk/newsMainTemplate.asp?storyID=2759&newssectionID=1
すぐに思い起こされたのが、兼常清佐氏のアレである。そう、名人滅亡*2だ。いーえい、スゲー!ついに機械力は、名人の存在を打ち亡ぼしてしまうところに、手が届きそうだってことだ。
それがどこかの「タイプライター嬢」の演奏を、主たる材料として利用しているか否かということは、ここでは大きな問題ではない。部分的に取り出して手を加えることが出来るのなら、複数のそれを混ぜることだって、それらを参考に新しいモノをつくり出すことだって、すぐに可能になる。演奏せずに「演奏」をつくり出す!
すこし角度を変えると、別の連想が湧きあがってくる。時間軸をぶった斬る純正律*3である。「ピアノはそもそも音痴な楽器だ」などと、音律に関する「べき論」の中で矢面に立たされてきた感のある楽器の王者だが、もはやそんな汚名は返上だ。どんなもんじゃーい。全部なおしちゃえばいいんだもの。
ただしこの技術は、いままで「阿吽の呼吸」で取り扱われてきた、実は極度に難しい問題を、くっきりと浮き彫りにしてしまう。そう、音律プランだ。エニィ瞬間にエニィ音律を与えることができる自由は、言い換えれば僕らに理念と選択を強いる。「仕方ないから平均律」でコトが済む平和な時代は、もはや閉幕なのだ。逃げられない。
演奏者と音色とを、そっくり入れ替えてしまうことだってきっと可能だろう。ショーターなコルトレーン、ユーミンなドリカム、長嶋茂雄な王貞治。その気になればおそらく、長嶋茂雄なコルトレーン*4だって可能だ。こうして口に出してみるとよくわかるが、要するにこの事件は、テクノロジーなオレオレ詐欺だったのだ!
デジタル処理そのものを、アートと考えることはできないのだろうか?今回のピアニストのCDと、一般的なサンプリングアートと、一体どこが違うのか。いや、もちろんクレジット表示を始めとした権利関係の整理*5が、少なくとも全く足りないわけだが、それらが整備されたとしたら?「名人」をつくり出す名人の誕生!
どれも別に、いまに始まったハナシじゃないのだろうが、一方であまり世の中で語られていないことでもあったりして、妄想が尽きない今日。寒い夕暮れ。
*1:速度を落としていたりしたらしい
*2:id:ioxinari:20031102
*3:id:ioxinari:20040217
*4:いわゆるひとつの巨人の足跡
*5:id:ioxinari:20040323