国家(下)
さて下巻だが、ここでは哲人統治者のための知的教育プログラムの一環として、音楽理論が取り上げられる。
- 作者: プラトン,藤沢令夫
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1979/06/18
- メディア: 文庫
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「おそらくこう言えるのではないか」とぼくは言った、「すなわち、目が天文学との密接な関係において形づくられているのとちょうど同じように、音階の調和をなす運動との密接な関係のもとに耳が形づくられているのであって、この両者に関わる知識は、互いに姉妹関係にあるのだ、と。これはピュタゴラス派の人々が主張し、われわれもまた、グラウコン、賛成するところなのだがね。―それともわれわれは、どういう態度をとろうか?」
なるほど、「目」と「耳」にかかる学問として、力学と音楽が取り上げられると。どちらも「運動」が、それぞれ別の器官ではあるものの、これらを通じて僕らの脳に飛び込んでくるって話か。
「われわれの養成しようとする者たちが、そうした学問のうち何か不完全なものを、すなわち、すべてが到達すべき目標へとつねに到達しないようなものを、学ぼうと試みないように気をつけるということだ。ちょうどわれわれがたったいま、天文学について語っていたのと同じようなぐあいにね。それとも君は、あれと同じようなことが、音階の調和についても行われているのを知らないかね?というのは、ここでもまた人々は、耳に聞える協和音やさまざまな音響を相互に計りくらべて、ちょうど天文学をやっている連中と同じような、無益な骨折りをしているではないか」
ふむふむ、何か余計なことをするなといっている。協和音や音響を計り比べることが、無駄骨だと?
「神々に誓って、まったくそうなのですよ」と彼は言った、「それに何とも滑稽ですね、あのやり方は。ーやれ『稠密音』だとか何だとかいった名前を口にしながら、まるで隣から声を盗み聞きでもするような様子で耳をぴったりとそばへ寄せて、ある人たちは中間にまだ音が聞きとれるから、それが最小の音程であり、それが単位とならなければならないと主張し、他の人たちはこれに異議をとなえて、いやこれと同じような音はもう前にもしていたのだと反論する、といったぐあいで、どちらの人たちも耳を知性より先に立てているわけです」
うーむなるほど、具体的になってきた。つまりあれか?耳を澄ますだけじゃなくて、しっかりと知性でもって考えろと?
「君の言っているのは」とぼくは言った、「あの善良な人たちー木栓の上で絃を締めあげて拷問にかけながら、絃を苦しい目にあわせて吟味にかけている連中のことだがね。……だがこのうえさらに撥で打擲を加えるとか、絃を告発するとか、絃が否認したり図々しくしらを切ったりするとか言っていると比喩が長すぎることになるから、比喩はもうやめにして、ぼくの言っているのはそういう人たちのことではなくて、さっき音階についてわれわれが質問しようと言っていたあの人たち〔ピュタゴラス派〕のことなのだ、と言っておく。というのは、あの人たちは天文学をやってる連中と同じことをしているからだ。つまり彼らは、耳に聞えるこの音の協和の中に直接に数を探し求めるけれども、しかしそれ以上のぼって問題をたてるところまでは行かず、どの数とどの数とがそれ自体にして協和的であり、どの数とどの数がそうでないか、またそれぞれは何ゆえにそうでありそうでないのかを、考察しようとしないのだ」
やっぱりそうか、要するに考えろ、と。うーむ。現代においてはむしろ、考えるだけで耳を澄まさないひと*1も沢山出現してる気もするが。まあたぶん、そんなのは彼らにいわせれば論外だろうけどさ。このセクションの前に書かれている天文学のところでも、「目にみえる美しさの向こう側にある『真実』に、知性をもって迫れ」的な内容が書かれているわけだったりするのだ。アタマをつかえ!
ところでアレだ。どうでもいいけど、「比喩が長すぎるから比喩はもうやめ」ってのは、あはは、僕もときどき見習わなきゃ。