音楽と生活
久しぶりの本の紹介だが、これはもう最近のとってもお気に入りである。とにかくもう滅茶苦茶にラディカル、このおっさんブっとんでる。
- 作者: 兼常清佐,杉本秀太郎
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1992/09/16
- メディア: 文庫
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さらに驚くのは兼常清佐氏は1885-1957、この奔放な言動が戦前のものだってこと。「戦前」なんて僕には想像もつかないが、すくなくともインターネットも携帯電話もナイ世の中である。僕ら戦争を知らない子供たちなのである。
「名人滅亡」と題された最初のエッセイからして、いきなりにチャレンジングな内容で。ちょっと抜粋しちゃおう。
機械文明は音楽をだんだん機械化して来た。蓄音機やトーキーはその場限りの名人の演奏を長く保存した。ラジオはその場限りの名人の演奏を広く普及した。いっそのこと、機械力はその名人の存在を打ち亡ぼしてしまう処まで行けないものであろうか。
名人なんていなくなっちゃえ、というわけである。もちろん彼だってわかっている。
今ではこの事はただ一場の空想である。今ある音楽機械はピアノラくらいなものであろうが、それとても決して完全なものではない。完成の域にはまだまだ遠い。絃や声などになったら、その機械化などいう事は、考えようにも考える材料からして無いような状態である。今では名人のない音楽は、全く夢を語るようなものである。しかし、夢にしても、それは私共の極めておもしろい夢ではあるまいか。
抜粋だけでは伝わりにくいだろうが、音楽を心から愛するこの男が、「完成された機械」の演奏を聴くことを望んでいるわけでは勿論ない。彼は単に、彼の愛する音楽に巣食うニセモノや迷信に対する嫌悪感を、このぶっちぎりの発想と語り口で、それこそ「音楽的」なエッセイに仕立て上げているのだ。
ところで「音楽の機械化」は随分進んで、名人抜きでも音楽で遊ぶってことは、今じゃ全然具体化してるぜ(日本ブレイク工業社歌!)。
こうした彼の鋭利な視線が、音楽にまつわるあちこちに向けられちゃうのが、このエッセイ集の痛快である。「ピアノ演奏家なんてものは、大雑把にいえばタイプライター嬢みたいなもんだ」などと本当に大雑把に言い放ち(いや繰り返すけどホントはわかってるんだよこのひと)、有名な、あのセリフも惜し気もなくあちこちで登場する。
パデレウスキーが叩いても、猫が上を歩いても、同じ鍵盤からは同じ音しか出ない。
出たー!ザマーミロ。それでこのおっさん「猫とピアニスト」実験までしちゃう、もう最高。
魅力的に居並ぶエッセイのタイトルたちをちょろっと紹介しとこう。「名人滅亡」のあとには、
- 音楽の合理化
- 音楽界の迷信
- 音楽の芸術化
- お前の音楽をやれ
- 「ピアニスト無用論」
などと続くのだ、なんて刺激的!
ところで「音楽と生活」がタイトルであるこの本は、4つの部から構成されるんだけど、この痛快な音楽論は実は1部だけで、残りはたぶん「生活」編に属するんだと思う。しかしこの1部の後に読む彼の「生活」は、また味わい深い。
僕は彼のスタンス、音楽を愛すること、しかしそのインチキくさい常識を疑うこと、これらをいつでも、絶対に、支持する。
僕もこういうふうに、生きていこうと、強く思う。