豊かさの歩みを音楽で測る
値段は需給で決まるもの。これまでと比較して、録音された音楽の値段が下がって、ライブ演奏される音楽の値段が上がる傾向にあることは、必然だと思う。「コピーを規制する」という録音された音楽の再供給をコントロールする(あまり生産的でない)手法が、テクノロジーの進歩によって駆逐されつつある*1ことから、その値段は限りなく下がらざるを得ない。一方でライブ演奏される音楽に関しては、そもそも機会や席数の意味での供給は限られていて、価格は需給の状況によって本来バラつくべきものだった。市場機能の未発達とブローカーの能力不足*2のせいで、なんとなく皆が値段を似せていたというだけの話だ。
「とにかく自分の音楽を聴いてほしい」みたいな欲求は、時代にかかわらず僕らが豊かになるほど増えるわけで、にもかかわらず「デビューできない」みたいなジレンマがなぜあったのかといえば、そういった供給圧力にもかかわらず価格調整のために総量規制を敷く業界のボトルネック構造に主たる原因*3があったと言えよう。そう、それはすこし国内農業に似ている。ところがプリンスやナイン・インチ・ネイルズ、レディオヘッドのような、繊細で感覚的な、そして名前の売れたミュージシャン達が、時代の空気を読んだのか、その構造そのものを放棄し始めた。素敵なことだと思う。間違いなく「規制」は、この文脈では効率の妨げにしかならないからだ。効率とは、幸せを分配する際の摩擦の小ささのことだ。
値段が下がることで、録音された音楽に触れる機会が増えた聴衆は、ライブ演奏される音楽に、もちろん出向くだろう。なぜならライブ演奏の素敵さは、永遠だからだ。繰り返しておく。なぜならライブ演奏の素敵さは、永遠だからだ。もちろん、前述のようなビッグなミュージシャンのライブ演奏の値段が上がれば、より値段の安いミュージシャンのライブ演奏だって需要は上向くだろう。「ホンモノのプリンスは贅沢なのでタマにしか行けないけど、今日は池袋のプリンス*4行っとく?」みたいな感じで。
そうやって音楽は、いまよりも、もっと、皆のものになる。
何度でも繰り返すけど、そんな社会を素敵だと僕は思う。